コスタリカに住んでた時の話⑥ コスタリカの歴史
- Watanabe Tsukasa
- 2019年6月28日
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1519年
スペインのペドラリアス総督が太平洋側の拠点としてパナマにパナマ市を建設後に中米征服を開始。
1522年
ペドラリアス総督派遣の部下がパナマを出発して、コ国西海岸に上陸。チョルテカ系先住民から金などの贈り物を受ける。金ぴかの装飾品を付けていた先住民を見て、ペドラリアス総督の部下はなんて豊かな所だと感じました。それが理由で、“コスタ・リカ”豊かな海岸と命名されることに。
1564年
支配がほとんど完了し、中央盆地にカルタゴが建設される。17世紀初頭:スペイン人が持ち込んだ疫病なども影響し先住民人口は約1万人となる。労働力や金銀等の鉱山資源も少なかったために白人自営農民中心の社会が形成される。この頃に先住民達はスペイン支配が行き届かない辺境地へ逃亡し、労働力は次第に先住民から黒人奴隷(カリブ海諸国から)へと変わる。先住民達が辺境に居るのには、このような理由があったようです。
1650年
カカオ・ブームによって植民地経済が一時期活性化するが、その他の優良なカカオ生産値にコ国は敗れる。
近隣諸国とは違い、カカオ・ブームが長く続かなかったことが、現代ではスペイン系住民95%といわれている民族構成を作った要因の1つと言われています。
1823年
奴隷制度廃止を宣言。
1890年
コ国の輸出の80%がコーヒーとなり、主な港としてリモンが発達する。鉄道建設、コーヒー栽培やバナナプランテーション等の労働力として、カリブ諸国(主にジャマイカ)から来た黒人や中国人が定住した。黒人や中国人は低地から気候のよい中央盆地に行くことは禁止されていた為、職がなくなれば隣国に行くか自国に戻るしか方法がなかった。スペイン人は低地の蒸し暑い気候による疫病を恐れており、また魅力的な金銀鉱山も低地に少なかった為に中央盆地から離れることはなかった。
当時の人々は、「海岸低地に出かける者は勇者である。しかし2度行く者は愚者である」と言った程に気候の良い中央盆地から離れませんでした。この黒人や中国人の中央盆地への移動禁止は、なんと1947年まで続いた為、今でもリモンを中心としたカリブ海側は黒人の割合が高くなっています。このことが理由となり、コ国のカリブ海側の町はライス&ビーンズのように中央盆地とは全く異なる文化が発達しました。
1つの事実として、現在でも黒人や東洋人に対する差別的な行動や発言をする人が居るのが現状です。また隣国であるニカラグア人と間違えられることをコスタリカ人は非常に嫌います。建国からの歴史は浅い国ではありますが、だからこそコスタリカ人としての誇りを高く持っているのだそうです。

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